自分の名前に飽きた

自分の名前は嫌いじゃないけれど、30年以上も生きているとさすがに飽きてきた。基本的に名前なんて生活圏の中でほぼ完結するわけで、であれば自分で好きなように名乗ってもなんの問題も無いはずなのにな。
名前は識別するための記号だからどうでも良いじゃんと言うのはあるんだけど、だからこそ好き勝手に名乗りたいな。どうでも良いことだからこそ、ちょくちょくその時の自分の気持ちに合った名前を名乗りたいよね。日本の昔の人たちもかなり好き勝手に名乗ってたし。そっちの方が自分機にはとても自然に思える。
とはいえ、名前については相手があってはじめて生きるもの。相手にそれで呼ばせられるだけの関係性をしっかり作らないと、相手の方が「めんどくさいな」となることうけあい。自分はともかく、興味の無い相手であるならばその人物の特徴「ノッポ」「メガネ」「赤毛」等々で事足りるんだよね。まあ、それはそれで半径3kmの関係性では良いんじゃないかとも思ったりもするんだけど。
戸籍名にこだわる必要なんて自分のみの周りの関係性だけで言えばなにもないんだよね。むしろ今は社会的な要請が大きい。会社に入るとき、宅急便や郵便を取りに行くとき、イベントに参加するとき、出かけるとき等々、あちこちで最近では「公的身分証明書」が必要になってきているし、それはますます進んでいくんだろう。それは便利な社会、つまり「自分という人を知らない中でもあれこれ便利が出来る世の中」の代償でもあるんだよね。戸籍名という、形で確認が出来るものって、自分が他人ならこれほど楽なものがない。
一方で、自分の名前に飽きてしまい自分の名前を変えられない状況であれば、自分の名前がより「記号」に近づいて行ってしまうんだよな。意味のあるものが一見意味のないものに変換され、自分もそうなってしまうような。
で、社会的な整合性と、自分の納得出来る名前との整合性をとらえると、アメリカの社会保険番号みたいなものの導入もアリかなあと思うのですよ。記号的なものはすべて社会保険番号に担わせて、名前はもう好き勝手に変えられる。あえて記号を導入し、そちらに利便性を委託した上で、名前という個人的パーソナルなものは自分の好きに使えるっていう。
ただ、子供の名前が奇抜だからキラキラネームとか馬鹿にする今の風潮を見ると社会的にはそうはいかないのかなあと思ったり。よくみんな自分の名前に飽きないねえ。。。社会に認められた名前だからってことで大事にしてるのかなあ。となれば、こういう気持ちを持つのも少数派なのかな。アメリカの社会保険番号みたいなものが導入されても、名前は好き勝手に変えられないかもね。
あー、飽き飽き。一方で、勝手に変えてあれこれ詮索されるのもめんどくさいので、単なるめんどくさがりなだけかもとも思いますが、もっとナチュラルに変えたいよね、名前。勝手に変えりゃあいいじゃんとは、よく自分に言うんだけど(笑)
(注)戸籍名が変えられないものじゃないと言うことはわかってます。ただ、変えるのにものすごい労力がいる(いりそう?)というのが、ね。