アルフレッド・マーシャルの言葉

ロバート・L・ハイルブローナー「私は、経済学をどう読んできたか」は、示唆に満ちていて、読んでいてとてもドキドキワクワクしてしまう。今日は、久しぶりに読み直して心にドスンと来た所を紹介したい。(P395-P396)

いつもそうであったが、今日も、社会の再組織のけだかく熱心な計画作成者達は、かれらの構想力をもって容易にきずきあげた制度のもとではこうなるだろうと、美しい絵を描いてみせている。しかしこれは無責任な想像だというほかはない。それというのも、人間性がこれまで一世紀かかっても、たとえ有利な条件があっても、変化するとはとうてい期待できなかったのに、彼らは新しい制度のもとではそんな変化が急速に行われるといった想定を暗黙のうちにおいているからである。人間性が理想どおりに変貌できるものなら、現行の私有財産制のもとでも、経済騎士道が生活を指導していくことになろう。私有財産の必要性は明らかに人間性の性質だけでは説明できないもっと奥深いものがあるのだが、人間性がそうなってしまえば、私有財産の必要はなくなるし、またあっても無害なものとなるだろう。
現代の経済的害悪を強調し、以前にも同様の、しかももっとひどい害悪があったことを無視しようとする誘惑にたいしては、警戒をしなくてはならない。多少の誇張はわれわればかりか他の人々をかつて、現存の害悪をもはやこれ以上存続させていってはならない、といった決意をいっそう強くかためさせることがあったとしても、そうであることに変わりはない。利己的な理由からではなくよい意図をもってするとしても。誇張や無視が真理をもてあそんでいることが間違いであることには変りはないし、一般に愚かという点でははなはな愚かというほかはない。現代の悲観論者風の叙述に、過去の時代の幸福の誇張が結びつくと、徐々としているとしても堅実な働きをしているところの進歩の道をすて、大きな希望を約束するようではあるが、山師の強い薬のように、多少の速効を示すが同時に広くおよび、長くつづく衰退の種をまくところのべつの道を性急に選ぶことになりかねない。・・・『経済学原理』馬場啓之助訳(東洋経済新報社 第4巻 1967年 292-293ページ)

想定しているものは違うが、これって前者が『ウェブ進化論』で表現される世界を、後者が『国家の品格』を愛読の書とする人たちへの批判として成り立つんじゃないかな〜。とか思ったりした。どっちも売れてる新書。まあ、詳しいところまで見ていくと私有財産制屁の言及など前者=Web2.0論は成り立たないんだけど、ただ、新しいものへの過度の信奉を戒めるという点では成り立つし、後者に至っては『国家の品格』を愛読する人たちへの批判としてピッタリはまるんだよね。
ま、それはそれとして、何だか妙に心に響く言葉で、暗唱できるようになりたいと思ったりした。色々応用が利きそうだしね。