女王の教室

ま、総集編も終わったみたいだし、誰も見ないときに総括するのも良いでしょう。
女王の教室」は2005年に放送されたTVドラマの中でも3指に入るくらい好きだったドラマ。その主な理由は、早い展開に息も止まらぬ演出、そして何より好演した志田未来ちゃんを初めとする役者陣の頑張りにある。毎週、放送を本当に楽しみにしていた。DVDにmpeg標準で焼いちゃったしね。
でも、最後の最後があまりにも惜しすぎる。最後の最後で馬脚をあらわしてしまった。ラストに阿久津真矢が子供たちに理解されてしまうのだ。特にその理解される話は、阿久津真矢の生身の人間化によってなされてしまった。子供たちを見守る疲労で倒れ、子供たちの身を守るためにその身を投げ出し、入院までしてしまうのだ。その結果、子供たちは阿久津真矢の「献身ぶり」を見、阿久津真矢を本当の先生として認める。
ここだけ見ると、筋としては良いだろう。しかし、これまで培ってきた非現実な部分が、生身の人間である阿久津真矢によって全て打ち砕かれてしまったのである。生身の人間である阿久津真矢は、ストーリー上、確かに子供たちの理解を得た。しかし、生身であるために、入院によって教鞭をとることはできなくなり、さらには教育委員会より教職から遠ざけられてしまう。
ここでどうしても引き立ってしまうのは、阿久津真矢の途中退場であり、最後まで子供たちを見守った代理教師である教頭の存在だ。つまり、現実で生身であるところの阿久津真矢は、社会の要請を無視し、自分の肉体の限界を無視することで、その究極目標である「子供たちの教育」を投げ出さなくてはならなくなってしまうのである。一方、俗人である教頭は阿久津真矢の抜けた穴を埋め、受験を控えた子供たちの不安定な状況を乗り切らせ、「子供たちへの教育」を完遂させる。「阿久津真矢の行動が子供たちに自覚を生み出させた」という方便は、この現実の前では、「大人」である教頭の存在に消し飛んでしまうのだ。
これは、最後の最後で現実感を出して、底の浅さをさらけ出してしまった格好である。
阿久津真矢を最後まで仮想の存在として話をすすめれば(現実感のない、不確実な存在)、こういったことにはならなかっただろう。最後に「良い先生だった」という演出をわかりやすくするため現実感を出したのだろうが、それでかえってストーリーの破綻を生み出してしまった。
ストーリーの中で。フィクションという中でこそ生きていた阿久津真矢を、現実の世界に出してしまったことの影響は果てしなく大きい。この現実感を伴った阿久津真矢を出してしまった後で、本当に続編なんて作れるのだろうか。現実の世界の阿久津真矢は、俗人かもしれないが「大人」である教頭には、そして現実の世界の数々の教師たちにはとても敵わないのだ。そんな馬脚の現れた教師を今更描いてどうなるというのか。
方法は一つしかない。現実で大人な教頭と、フィクションの世界の住人である阿久津真矢の対比を、フィクションの世界で(阿久津真矢の世界で)戦わせるという方法しか。
この作品の続編を作る人は大変だなぁ。また、フィクションの阿久津真矢を登場させなきゃいけないんだから。整合性の部分で大きな犠牲を払わなきゃいけないよなぁ。
ま、ドラマなので、理論ではなく、展開のスピードと演出力で一気に押し切っちゃうという手が一番有効なんだけどね。でも、今の日本にいるディレクターで何人がそれが出来るか。しかも、SPの一発勝負の中で。未来はなかなか暗いですね。